昭和20年4月5日 桶川飛行場

元整備員(埼玉県北本市在住)

 私は大正15年生まれで、昭和12年ごろから川田谷にあった熊谷陸軍飛行学校桶川分教場に、昭和16年1月から昭和20年5月初めまで整備員として勤務していた。
桶川飛行場は、熊谷にあった陸軍飛行学校の分教場で、召集下士官や少年飛行兵、特別操縦見習士官などの操縦訓練をしていた。初心者用の通称「赤とんぼ」という複葉の飛行機が16、17機あり、数か月に一度、50〜70人の学生が入学してきて、気象学、航空工学や基本操縦を学んでいた。生徒・学生、本部兵舎の事務職員以外に、飛行場には、飛行機の整備班、燃料担当の補給班、格納庫内の雑務を担当する庫内班などがあったが、整備班は、技術将校を筆頭に、30人ぐらいいたと思う。
初練、中練という操縦の基本を教える学校であったが、時には、高等練習機による高度な操縦を教えることもあった。学生は、ここを卒業すると、福岡の太刀洗(たちあらい)飛行学校や外地の飛行場で、実戦機の訓練に入った。

 昭和20年ごろになると、桶川分教場は、特攻隊の訓練基地も兼ねるようになり、私は、特攻練習用の97式戦闘機や99式高練(高等練習機)など、実戦機に近い飛行機の整備担当となった。各地から特攻隊を編成した隊員が来て、特攻攻撃の訓練を行っていた。訓練は、滑走路から今の本田航空の事務所に向かう途中の堤防上に立っていた吹き流しをめがけて急降下し、また、急上昇していく繰り返しだった。

拝司少尉に他の隊員が残していった寄せ書き 桶川出発の2日前、後進育成のため隊員から外された拝司少尉に他の隊員が残していった寄せ書き

 戦況がいよいよ険しくなってきた昭和20年4月5日、特攻隊員12人が知覧(ちらん)から出撃することになった。整備のため、私たちも99式高練に同乗するよう言い渡された。指名されたのは、整備担当の藤原曹長と整備員5人であった。隊長の訓示、別れの酒のあと、12機のうちの6機の後部座席に乗った。特攻隊が出発することは秘密のはずであったが、うわさを聞きつけて周りの堤防の上には、見送りの人たちが来ていた。荒川の上流に沿い、北に向けて飛び立った。眼下には、冬枯れの薄茶色の地面の中に、黒く蛇行する荒川が見え、太郎衛門橋の上では、おじいさんらしき人が大きく日の丸を振り、ほかにも数人が手を振っているのが見えた。旋回して戻り、飛行場の上を超低空で飛んで見送りの人たちに左右の翼を振って別れの挨拶をしたのち、12機は、西に向けて飛んで行った。戦争に行って死ぬのは当然と思っていた当時、私はどんなことを思ったか、今思い出すことはできない。途中、各務原(かがみがはら)飛行場に一泊し、下関に近い小月(おづき)飛行場に向かった。

 私は、京都出身の山本少尉の飛行機に同乗したが、京都の町に入ったとき、大きな煙突だったので風呂屋だと思うが、2階の物干し台の上で家族らしい人たちが大きく日の丸を振っていた。私の飛行機は、驚くほど超低空飛行で煙突の周りを2、3回まわり、翼を大きく振って別れの挨拶をした。学徒出陣で、学生からいきなり特別操縦見習士官1期生として入隊し将校となった22歳の青年が、故郷の空をどういう思いで飛んだのか、胸中を察するに余りある。

 小月飛行場に着いた私たちは、翌日朝、試運転を終わって飛行機を隊員に引き渡した。アクセルを吹かした飛行機の爆音の中、山本少尉は、車輪止めをはずし終えた私を操縦席に呼んだ。「柳井、世話になったな。整備班に帰ったら、みんなによろしく伝えてくれ」。私たちは列車で帰ってきたが、隊員たちは鹿児島県の知覧基地に向かい、記録によると、4月16日、第79振武隊として、沖縄の海に散ったということである。

 桶川から飛び立ち知覧から出撃した12人の寄せ書きが、今も知覧の記念館に残されている。桶川から特攻隊が出たのは、私が記憶しているのは1回だけで、その後あったとは聞いていない。


水盃を交わしている特攻隊員 水盃を交わしている特攻隊員

<解説>
 特攻隊の待機部隊は、2、3週間ずつ各地の飛行場で秘密裡に訓練していたといわれるが、桶川には3,4隊が来ていたようである。
 昭和20年3月27日、知覧に向けて出発する12名の特攻隊員が決定された。
同年4月5日正午、出撃基地である鹿児島県知覧飛行場に向け出発。使用機は「九九式高等練習機」で、陸軍で初めての練習機による特攻と言われる。
12機のうち6機に整備兵又は整備員が同乗し、途中、岐阜県の各務原飛行場、山口県小月飛行場(現下関市)に立ち寄って各1泊した。
 小月飛行場で整備員と別れ、4月7日午前、知覧着。4月16日出撃。うち1機(池田機)は、爆弾を落下したため一旦帰還し、同22日再出撃。1機は敵機の攻撃に遭い、小島に不無着。知覧に帰ったが、飛行機がなく再出撃の機会がなかった。
(旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会)