×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



昭20.4.5正午/知覧に向け出発した第79振武特別攻撃隊(多田少尉撮影) 昭和20年4月5日正午
知覧に向け出発した第79振武特別攻撃隊
(多田少尉撮影)



熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の概要

1、飛行学校の位置と概要

 桶川飛行学校は、昭和10年開設された熊谷陸軍飛行学校の桶川分教場として、昭和12年6月3日に開設されました。校舎は、荒川に架かる太郎右衛門橋の上流の高台にあり、戦後、外地からの引揚者の寮などとして使われましたが、今も建物の一部が残っています。 滑走路は、現在の本田航空株式会社の滑走路とほぼ同じ位置に、幅300、長さ2,000メートルの滑走路、滑走路と本田航空社屋の中間の堤防上には、38×47メートルの格納庫と現地事務所があり、現在もその基礎や井戸の跡が残っています。

 学校本部は、教室・講堂、将校室、事務室、医務室などがある本部と呼ばれた建物に、学生の宿舎が併設されており、風呂場・食堂棟、便所など、10ぐらいの木造建物で構成されていました。
飛行機は、複葉機(上下2枚の翼)の95式T型練習機で、機体がオレンジ色に塗ってあったことから「赤トンボ」と呼ばれ、20機ほどありました。

 昭和12年頃から16、17年までは、他の兵科から飛行兵を希望して入隊してきた召集下士官、昭和18年ごろからは桶川教育隊と呼ばれ、少年飛行兵や、学徒動員により大学、専門学校を繰り上げ卒業などして入隊した特別操縦見習士官など、昭和20年までの8年間に20期余り、推定1,500−1,600名の飛行兵を教育したものと思われます。
昭和16、17年ごろまでの卒業生のその後は、明らかではありませんが、戦況が険しくなり、飛行兵の需要が急増してきたころの昭和18年9月に卒業した少年飛行兵第12期生は、45名中18名が戦死、19年3月卒業した特別操縦見習士官第1期生は、80余名中20名近くが戦死しています。


2、特別攻撃隊の出発

 特別攻撃隊は、一般的に「特攻」と呼ばれ、飛行機が爆弾を抱いて操縦士ごと敵艦に体当たりする世界戦史上例のない攻撃方法で、フィリピン沖での攻防や沖縄戦に多く投入されました。 海軍の「神風特別攻撃隊」が有名ですが、陸軍では、沖縄戦のために編成された「振武特別攻撃隊」があります。沖縄戦だけで陸海軍あわせて約3,000機の特攻機が出撃しました。

 本会の調査で、桶川からも特別攻撃隊が出発したことが明らかになりました。戦況が険しくなってきた昭和20年2月、熊谷飛行学校は廃止され、本校と桶川教育隊(桶川分教場)などの教育隊は、第52航空師団に改編され、特攻攻撃の訓練基地となりました。

 各地から特攻隊を編成した隊員が来て特攻攻撃の訓練を行っていましたが、昭和20年4月5日、特攻隊員12名が知覧に向け出発しました。99式高等練習機という2人乗りの練習機で、6機の後部座席には整備員が乗り、山口県の小月(おづき)飛行場まで送りました。
当時、特攻隊員として、桶川飛行学校で訓練をしていた多田計之少尉が写した写真を手がかりに調査の結果、同乗した整備員の証言を得ることができたのです。それは、山田信義少尉を隊長とする第79振武特別攻撃隊で、小月飛行場についた翌日、特攻隊員は、特攻の前線基地である知覧基地に向かい、昭和20年4月16日、沖縄の海に向け出撃しました。飛行機の補充が続かなくなってきた陸軍は、練習機まで特攻に出撃させるようになったといわれますが、記録によると、この第79振武隊の99式高等練習機12機が初めてでした。旧式の偵察機を改造したもので、川越から塗装業者を呼んで、実戦機のように灰緑色に塗装しましたが、当時の敵機に比べ、時速や馬力で大きく劣っていたと、元整備員は証言しています(広報おけがわ8月号に手記を掲載 *平成16年8月号)。

桶川から飛び立ち知覧基地から出撃した12人の寄せ書きが、今も知覧特攻平和会館に残されています。


待機部隊の隊員や職員、地元の人が見送った 待機部隊の隊員や職員、地元の人が見送った。

3、教育・訓練

 昭和19年2月ごろ、朝日新聞社が桶川飛行学校を取材した写真集『写真報道 学鷲 陸軍特別操縦見習士官』(64ページ)が残っており、昭和18年ごろの訓練内容を知る大きな手がかりになりました。

 桶川飛行学校での教育期間は、5、6か月の基礎課程で、気象学、空気力学、航空工学などの学科のほか、赤とんぼや99式高等練 習機などによる水平飛行、宙返り、錐揉みなどの特殊飛行、編隊飛行の訓練を行いました。操縦実技の訓練では、5、6人の学生に対し、伍長、軍曹、曹長などの下士官の助教1人がつき、飛行機の前部座席に教官、後部に学生 が乗りました。
訓練期間の後期には、戦闘、爆撃、偵察などの分科に分かれて訓練を行い、卒業間際には、野外航法として浜松や岐阜など遠方の飛行場にも演習に出かけました。 桶川飛行学校を卒業すると、熊谷本校や全国の飛行学校で高度の訓練をし、または台湾、朝鮮など外地の部隊で実戦機による訓練を経て実戦部隊に配属されました。

 教官は、営外居住で通いが多かったようですが、学生は全員が学校内の宿舎に泊まり、朝6時の体操から始まり、夕方5時か6時までの教育・訓練が日課でした。第1教育班、第2教育班に分かれ、実技を午前、午後の交替で行いました。日曜日は休日で、川越や大宮の方に出かけることもできたようです。

以上